そしてまた、ネットワーク上に散在する出版物は、場合によっては独立性が薄く、リンクという相互の関係を生かしたまま保存しなければ再利用性がなくなってしまうものもある。 つまり蓄積は出版された時のままの、「場」そのものとして行なわれなくてはならないのである。 蓄積の対象は個々のドキュメントではなく、全体なのだ。 ネット世界の出版物は出版されたその時から、そのまま蓄積されなければならない。 分業していてはこれは実現できないのである。
このことを意識しないで出版し続け、蓄積を放棄すれば、個々のドキュメントは相互の関係を失った断片となってしまう。これは単なるゴミだ。
つまりネットワーク上には「新しくて価値のあるもの」と「古いゴミ」の二種類のものしか残らなくなり、当然あっという間に「ゴミだらけ」になってしまうだろう。
新しい状況に追随し続けるドキュメントだけが残り、そうでないドキュメントは内容の如何にかかわらずゴミとなるだろう。
これではネットには何も蓄積されない。
ネットは巨大な図書館だと誰かが言ったような気がするが、そんな図書館は誰も使わない。
今サーチエンジンは大量のゴミを見せてくれるが、それはネットのゴミ化の最初の一歩に思えてならない。
昔はあれほどサーチエンジンは有効だったのに!
電子世界での出版は、同時に蓄積をも意味する。 それを忘れてドキュメントを消したり移動したりしては駄目だ。 Fix されたドキュメントには Fix マークをつけ、それはリンクを張られていることを前提に、可能な限り長く保存し続けなければならない。 不変の識別子が必要なことが、これで理解できると思う。
テッド・ネルソンは「リテラリー・マシン」において、このハイパーテキストの特性を、その発明の時に見抜いていた。しかしハイパーテキストの上済みだけすくった WWW は、これらのことを忘れてしまっているように見える。
WWW はまたネットで集中を生んではならない、と言うことを忘れ、デジタル情報はコピーできる、ということも忘れて、多くの無駄トラフィックという災害をネット上に撒き散らしている。
次代のアプリケーションは、知恵の活かされたものであることを願う。
6 July 1998