So far...
私がこれまでに使ってきたコンピュータ(のようなもの)をざっと並べておこうと思います。 もうそろそろ何があったのか忘れてしまいそうなのです。 でも、どれも大切なことなのです。
別表:言語
子供の頃に熱中したことと言えば、分解(当然復元はない)、プラモデル、タミヤのギアボックス、マブチのモーター、塗装、アクリル工作などなどだった。 ありがち。
共立電子など。つまり電子工作、しかし電子サイコロなど非同期デジタル回路ばかり。 ゼロから回路設計し、基板をエッチングして作ったりもした。 アナログなものを触らなかったのは今にも響いている。やるべきだった。
6502A, 1MHz, 5KB RAM / 16KB ROM。いわゆるスイッチオン BASIC なマシン。 高校に入る直前に 69,800 円を兄貴と折半して購入。 最初は不思議なものだったが最終的には「良くできた電子回路製品」といった印象に。 市場にはゲーム&ウォッチといった電子工作延長製品が多い頃だった。
BASIC ROM の逆アセンブルなどを通してマシン語をここで学ぶ。 CRTC がどのようにメモリ内容を画面に描画するのか調べたり。 このときCPU が電子回路として実現可能だということが分かった。 それで最低限なのだがソフトとハードが具体的につながって コンピュータのイメージを把握し、今に残る骨になっている。
そもそもかなりアーキテクチャとして良いマシンだった。 当時のマニュアルの余りの出来の良さは今でも感動する。 使い方、BASIC文法、6502ニモニック表、ポート端子図、主要チップのピン配置、全体ブロック図、各種チップのタイミングチャートまで載っていた。
OS IV/MSP。いわゆる IBM 互換の大型汎用機。 高校の計算機数学部(すごい名前だ)の活動のひとつに少し離れた別の高校にあるコンピュータセンターに月一回程度通うというものがあった。
当時使っていた言語は FORTRAN が主。 プログラムが動くことは面白かったが、数値処理などには全く興味が湧かず、二年目あたりから設置されていたプロッタでグラフィクスを描くことに燃える。 ひたすら方眼紙にマンガの絵をトレースして座標を取り、それを OCR に書き込み続けて月に一回読み取り、実行、ということを繰り返す。
どこにでも工夫の余地はあるもので、1mm 単位の座標精度では飽きたらず、0.1mm 単位の座標表現と 1mm 単位のそれが混在できるように読み取り側プログラムを手直ししてなるべく効率よく少ない数字の記入で絵が描けるようにいじっていた。 三年目以降は複数の人間が座標を取って同じようにやっていた。 思えばこれが自分が作ったプログラムを、作る以上の時間を掛けて使い、また他の人が使ってくれた最初の例か。
延々とマンガのキャラクターを描き続けるプロッタを見てコンピュータセンターの人はどう思ってたろうなあ。。。 今でもあの独特のマシンルームのニオイがよみがえる。。
全く同じものが大学にもあったので、1995年に職場をうつるまでずっと MSP を使い続けた。 チューニング技術などを含めて基本的なコンピュータの手法を多く学んだ。 一つのシステムを延々使うのは悪いことではない。
ところで僕が高校に入った年からこのセンターには TSS 端末が導入されたのだが(それ以前はカードパンチ)、学生のタイプ速度などは非常に遅く、授業時間では実習にならないため彼らは 80x25 文字の OCR にコードを書いて読み込ませ、読み間違い(とバグ)を修正しながら実行するスタイルを取っていた。 つまり CPU タイムと端末占有時間と授業時間はそれぞれ稀少財だったから、潤沢財であるはずの自宅で考える時間と OCR に記入する時間をより多く使うように仕掛けていたわけだ。 通常のプログラミング実習ならタイプさえ速ければ OCR 方式はむしろ効率が悪いが、画像プロットのような大量データ入力には圧倒的に有利である。 つまりこの画像プロットプログラムはこのセンターの設備本位の仕組みをうまく利用者本位に使っていた事になる。
高校の部室には古い電子計算機がいくつかあった。 SHARP, Canon, Olivetti のそれらはどれもプログラミング可能なものだった。 最もよく使ったのは最もちゃんとプログラミングできた SHARP のもの。 型番は記録がないが、今調べて見ると恐らく Compet PC-3600 と思われる。 BASIC に似た文法できちんと処理が書けた。 フルキーはないので GTO などと書かれたキーを押すと予約語がひとつ入るという次第。 コードの保存、データの入力などにパンチカード(磁気カードだったか?)が使えたはず。 放電プリンタもついていた。
これで月着陸ゲームを作った。 三角関数を度数でやるか radian 単位でやるかといった選択ができるスライドスイッチがついていたので、これをスライドさせて sin() 関数の結果からロケット噴射の強弱を判定して無事に着陸させるというもの。
Canola はほとんど使わなかった。キャッシュレジスターで使うようなプリンタと磁気カードが使えた。 Olivetti は 132 桁のプリンタと2.5inch 程度のディスクが付いていたのでいろいろ遊べたはずなのだが、どうもしっくり来ず放置していた。
この頃に非常にちゃちな製品と高級な製品の両極端を経験したことになり、これが自分のコンピュータに対する感覚の骨になったのだろうと思う。 頭の中でとは言え、ハードウェアとソフトウェアの接続がこの時点でできていた。
大学に入って DEC System20 を使う。OS は TOPS-20。実習では 40 人以上が login してスクリーンエディタで作業していたが元気に動いていた。 高負荷になると自分でリブートする身勝手な奴。 端末として VT52, VT100, LA120 などを使った。
2060 では FORTRAN プログラミングなどを若干やっていたと思う。 SNOBOL や不思議な言語システムが多数載っていたはず。 どちらかというと後から入った VAX を使っていた。 2060 で Lisp や Prolog をやっておけば良かったと今になって思う。
1986年にT先生と一緒に書いた Plot ライブラリの 2060 への移植記事が当時の大学の所報に掲載されている。(AN10026642, Vol 4, No. 2, 1987/03)
MELCOM の型番は忘れてしまった。88? 86?。小型のオフコン。 主記憶が磁気ドラムというもので、残念ながら 2060 を前に使うことはなかった。
他にも大学にはあちこちの研究室に PDP-11/34 やおもしろいマシンがあった。 PDP の折りたたみ紙テープなどを見れば、なぜ C コンパイラが 1 パスで処理したがったのか理由が分かる。 Symbolics もあったはずだが。 Graphica や Tektronics 4000 シリーズのグラフィクス端末もあった。
PFU の 16bit オフコン。L-Kit で使っていた L16 が CPU だったはず。 学生の頃やっていた受託システム開発の手伝いで多用。
dual タスク(二つまでしかタスクが同時に動かない)という面白い構成のOS。 8086 ドータボードを入れて CPM-86 を動かし、WORDSTAR で COBOL プログラムを編集したり。
68010 に確か MMU は無しだったか。 メモリ、動作周波数は記憶に無し。System V 1.0 が動いていた。 tty が 16 port 背面に出ており、これに研究室に転がっていたありったけの VT 52, VT 100 をつないで使っていた。 といっても壊れた VT52 を二個イチにして直してまで揃えてもせいぜい 6 台程度。 4 人くらいで使っていて誰かが prolog でも走らせようものなら TSS のラウンドロビンが目に止まる程度の能力だった。 「あ、お前今コンパイルするなよな、、」
(2004年の祇園祭の夜に OMRON でこれらの開発に携わっていた人たちと雑談した。)
VAX 11 シリーズの後継として出された 8000 シリーズの最小構成マシン。 フルスクリーンエディタとして TPU という面白いものがあり、かなり入れ込んで使った。 Command line のスクリプト言語である DCL も使い込んだ。
使い始めの頃は VMS4.7 あたりだったと思ったが、5 に上げた途端に遅くなった。
Ethernet のことは講義で 2060 と VAX を接続しているものとして説明を受けた。 良く判っていなかったが、それでも学内に DECNET 接続したいという教員を手伝って、自分でキリを使って学内 LAN ケーブルにトランシーバを取り付け、当時最新だった 80286 PC/AT 互換機を接続した。 当時は大学の誰も自分で接続したことはなく、英文のマニュアルを読みながらテスターで 25 Ωねなどと言いながらやっていた。
それ以来ずっとネットを見続けている。
(Ethernet の共同開発者の一人である Chuck Thacker 氏には 2005 年に取材で会った。)
DEC が出した Z80/8086 dual CPU の PC 。しかし CP/M。使えない。 コンパイラとハードディスクでもあればそれなりだったかもしれない。
が、良くしたものでこれには ROM ベースの VT220 エミュレータがついていた。 まるでそっくりに動く良くできたもので(当たり前か)、これにセットでついてきたシリアルプリンタのコマンドを延々解析しながら、快適な VAX 端末とするべくひたすら調整していた。
Tektronix のグラフィクスターミナル。 この年か、その前年あたりに転がっているのを少し試してみた。 Plot10 のグラフィクスライブラリを使うような処理について、T 先生と一緒にいじっていたような。
Supermate とは比べものにならない超高級ワークステーション Sun3/60 が 4 台も研究室にやってきた。 しかも LaserWriter をつけて。 Sun3 は 68020+MMU, 8MB もメモリがあり、ビットマップディスプレイで SunView が動いていた。 ディスクは 140MB もついており、これを 2 台につけて 2 台をディスクレス運用。 しかし Smalltalk やら Unify (RDB)やらを入れていたらディスクはすぐに足りなくなり、 NFS の相互マウントを掛けて使っていた。つまり reboot の順番が重要という状況。
同期の栗原が延々と PC9801 のエスケープシーケンスをみながら termcap をいじっていた。 この頃ひたすら VT100 のシーケンス表を見ていた記憶有り。
書籍がなく、ただただ man の結果を印刷したマニュアルを読み続ける日々だった。 実はこれが良い英文文書読みの訓練になった。
久しぶりに衝撃を受けた製品。300dpi は強烈なインパクトだった。 PostScript も赤本、青本(Cookbook)を読みながらいろいろ試した。 当時 PS インタプリタはこのプリンタしかなかったので、書いたコードはプリンタにすぐ送り込んで結果が出たら成功、だんまりになったら思考デバッグという、例のボウリング・プログラミング(投げたらあとは成り行き任せ)だった。 後になって NeWS を入れたので(こんなことをしているからディスクが足りない) psh や画面上でデバッグできるようになった。
Postscript のコードを延々読んだし、また書いた。二度とないだろう。
(1999年に偶然にも当時 Cobalt の大美さんが赤本の翻訳に関わっていたことを知った。 また、2002年に当時 Sun Cobalt チームだった佐藤さんが NeWS に関わっておられたことを知った。)
この年の夏だったと思うが、当時大学院生だった(山口)英さんが京大との uucp 接続と bnews の設定をして帰った。 SystemV を常用していたらしく SunOS Release 3 との違いに苦戦されていた。 このとき大学のドメイン名が決まった。
はじめて使う広域メイルだったが、メイルを交換する相手がおらず、ニュースを延々読んでいた。 これから 1994 年くらいまでの間、ずいぶん長くニュースを読み続けた。
Sun 3 で動かしたらまあ重いこと。あまり突っ込まなかった。 惜しいことをした。 この時のオブジェクト指向って何だ?という苦悩が後でさまざまに役に立つ。
この頃 Apple が出していた Smalltalk を試したりもした。本当、試しただけ。
(当時雲の上の人だった Alan Kay 氏には 2004 年頃からの Squeak プロジェクト関連で会ったりサインを貰ったりした。)
この年だったか、その前の年だったか、HP が京都駅横で PA-RISC のセミナーを開いた。 HP-7000 初登場。RISC がどれだけ成功するか、いろいろ考えた。 HP のエンジニアが RISC の限界点をそれほど良く判っていなかったのが残念。 RISC は成功したが HP の RISC マシンを直接使ったのは 1996。神戸にて。
(RISC の産みの親の一人、Dave Ditzel 氏に 2005 年の取材で会った。)
海外留学した友人に US の学生割引で買って帰ってきて貰った。 プライベートマシンとしては VIC-1001 以来、二つ目のコンピュータ。 アプリケーションも書いたし、ハードもいじった。 アクセラレータも入れて延々使い倒した。 草の根BBSやNIFTYなどのネットワークコミュニティに入り込んだのもこれが窓口となった。 100 万円以上は優に注ぎ込んだが、個人的な経験量を大きく伸ばしてくれた、実にありがたいコンピュータだった。 始め職場で、後に 1998年に iMac を買うまでほとんど自宅のネット端末として働いてくれた。
SE の上で HyperCard を使い、ある種の衝撃を受ける。 オブジェクト指向のエッセンスを UI と内部構造にAtkinson 流に採り入れた、その思い切りに感じるものがあった。 この後かなり使い込んだ。
(HyperCard 産みの親、Bill Atkinson 氏には 2003 年に会った。 関西に来た時の観光案内ドライバーをやらせてもらった。)
68030 のオリジナルバージョン。 大学の研究室に一台入ったのでしばらくいじっていた。 Display PostScript などさまざまな点に感じるものがあったが、結局大したことはせぬままお蔵入り。
Junet メンテナンスマシンとして先生が導入したもの。 このあと延々とメンテナンスし、学内でのインターネットサービスを 1995 年ごろまで小さな体で支え続けた。
モデムも 2400bps 全二重からはじめて TrailBrazer などを使った。 ダイナミックに使える帯域を調整してビットを詰め込む根性に驚いた。
実は年代不詳。このあたりだと思うが。
大学に導入された MIMD マシン。独自プロセッサを HyperCube 構造で相互接続。 SPARC Station 1 程度の処理能力しかないが、それが 16 台、高速(というより低遅延)通信機構で結ばれているといったもの。
当時物理学系のユーザは VAX/VMS を使っており、当然のように DECNET を使っていた。 物理系だから HEPNET 接続も行っており、これは DECNET をそのまま広域に展開したものだったから、結果的に世界中の DECNET サイトとリアルタイムでインタラクティブな通信が出来る環境だった。
当時 UUCP による Junet を使っていたから、BITNET とあわせてリアルタイムなネットワーク利用というのがいいなあと思った。
同じく物理学系のユーザが BITNET 接続もやっていた。接続先は龍谷大学。 LISTSERV などと口走って、さて今どれだけの人が覚えているだろう。
常時接続かつリアルタイムな通信サービスが気持ちよく、いろいろ便利だなあと思った。 当時アングラ的電話コールによる UUCP だった Junet 経由のインターネットサービスに賭けるか、よほど機能的にはアドバンテージがあった BITNET に賭けるか、全学のネットワーク管理者気分としては考えるべきところだったかもしれない。
が、余り考えもせずにその一般性・汎用性から Junet (USENET)に注力し、ユーザを誘導すると決めた。 リアルタイム性は専用線予算が出たら解決できるが、IBM 大型汎用機または VAX ベースで、日本語メッセージも通りにくかった BITNET に比べ、安価な Unix システムが使え、日本語が通るように努力していた Junet 系サービスの方を採ったのだ。
5 月に学内の全ての PC / Workstation を学内 LAN に接続して回り、取得したグローバル IP アドレスを全台に手作業で設定して回る。 いつか外部とつながる日のために。
職場の補助マシン(もっぱらInternetサービス布教用に知人に貸していた)として中古で購入。翌年 Brainstorm アクセラレータを入れた。珍しく知人に売ってしまったマシンの一つ。
68030 20MHz。職場で自分用にはじめて買った Macintosh。 職種からディスプレイには 15 inch 縦型の Portrait を選択。 ディスプレイは何故このサイズが標準にならないのだろうと今でも不思議に思う良品。
カラーとはフルカラーのことと考えていたため、その後私物の IIfx を買って RasterOps 264 を入れるまでカラーのことはほとんど考えなかった。
この年、Preliminary の Alpha のセミナーに行き、native 64bit CPU というものにはじめて遭遇した。あれから 10 年以上が経ち、ついに 4GB のメモリ空間は PC に載るようになった。
アーキテクチャ、VMS を走らせるためのグルー処理部分など結構好きだったチップ。
(2005年の取材で会った Chuck Thacker 氏は 21064 の試作チップ、21063 を使ったテストマシンを開発していた。)
発売中止後に STEP で 40 万円弱で叩き売られたもの。 しばらくして Portrait も STEP で出たので即購入。
IIfx は 50MHz にクロックアップして長く使った。 100MHz の水晶を買おうと思ったら「そりゃ軍用品ですねえ」と言われた。
6つあった NuBus スロットは Ethernet, Apple 8bit video, RastorOPS 264, PLI fastSCSI2, MicroTV, VideoSpigot で満席になった。これにApple PortraitとSONY GVM1411が接続されてデュアルモニタで利用。(後に RastorOPS 24STV に替えた)
メモリも4MB SIMM を 16 枚入れて 32MB で使用。仕様上は16MB SIMMを入れて128MBに出来たそうだが当時としては冗談の領域。
ストレージは200MB HD, 5.25inch MO, CD-ROM, Syquest44MBと、時々GT4000カラースキャナをつないでSCSI も満席。もっぱら職場で使ったが、仕事で使うマシンというのはこういうものだと思う。ディスクは最後は 512MB まで上げた。
Portrait も Cinema Display を購入するまで 10 年使ったことになる。 この頃は機材が長持ちした。
最初の Alpha マシンとして買った DEC 3300 はとんでもないマシンだった。 プロセッサだけは並みのマシンの倍は高速だが OS の余りの負荷に何をやらせても足に重りを付けたようにノロノロと動く。 恐らくは OSF/1 のコンテクストスイッチが重すぎるのと、マイクロカーネルのプロセス間通信のオーバヘッド、それに 21064 のキャッシュヒットミス時のペナルティの大きさを混ぜて焼いたといった感じ。
同時期の DEC 3500 は Open VMS を載せており、これは激烈に高速で快適だった。 速い VMS をはじめて見た。
SuperSPARC, 40MHz x 4. (最大 20 CPU)。
まったく使えない Solaris 2 と、その元で僅か 4 CPU にもかかわらず強烈なパフォーマンスを見せた大好きなマシン。 手元で TSS を使うには SMP が最適と信じる源泉。
20 ものプロセッサを接続するために XDbus というパケットバスを 2 チャネル用意し、大きなキャッシュ(2MB?)を積み、主記憶のインターリーブを大きく取る (8 way?) など工夫の多かったマシン。 64 CPU に拡大した CRAY CS 6400 でも XDbus を 4 チャネルにしただけでそのままアーキテクチャを踏襲した。スケーラビリティが高かった。
翌年、256MB ものメモリを積んだこのマシンをひとりで延々使い、150 page の「UNIX ガイド」を LaTeX で書いた。 コンパイルが SPARC Center 2000、プレビューが DEC 3300 という豪勢な環境でようやく実用になった時代。
パッチを 50 も 60 も当てた Solaris 2.2 でようやく使えるようになった。 作業してくれた Sun の K さんに感謝。
学内に導入された nCube の二代目。(おそらくこの年。前年だったかも。) ざっと構造的な講習を受けて三日ほど取り組んでみたが、それでなければ解けないような激しい通信を要求する題材を試すことなく使わなくなった。残念。
こうした面白いアーキテクチャに触れたのはこれが最後か。 nCube 2 は 1989 年にはあったようなので、やはり 80 年代で出るものは出たのか。
夏休みに Web にさわる。この時から Web ページを持ち続けている。
確かこの夏だったと思うが定かでない。学内ネットワークバックボーンの更新に DEC の GIGAswitch を導入した。(後に ATM 版が出て GIGAswitch/FDDI と呼ばれるようになった。) 26 ポートほどの FDDI ポートをほぼ全ポート埋めて使った。全ポートを全二重の FDDI で接続し、完全クロスバースイッチでつなぐという強烈なパフォーマンス。 これをエアブロンファイバシステムと共に導入して、広帯域、低遅延と全体コスト圧縮を狙った。
当時 ATM フィーバーがあり、ATM でなければ補助金が云々と言われながら、動かなければ ATM なんて高いだけの屑と FDDI で通した。 結果、この大学は ATM をスキップして Gigabit Ethernet に移行し、数億円をドブに落とさずに済ませ、またエンジニアの心労も減じた事になる。 今でも ATM を LAN で使いたいとは思っていない。 各所の IX で長く使われ続け(当時 L2 IX が多かった)、その信頼性と共に愛された。 この大学では余りうまく活かせなかったようで残念。
(GIGAswitch の何年か前から DEC の FDDI bridge (3 Ethernet ports) などを使って いたが、その開発者のひとり Peter Roman と 2004 年に NetContinuum で遭遇した。 このFDDI製品群を僕は大好きだった。高かったんだけど。 2005 年に会った Chuck Thacker がこの GIGAswitch ATM の開発をしていた。)
システム更新が終わって疲れたので腹が立って衝動買いしたもの。 まだ型番がつく前のもの。 ほとんど使わなかったがその思想、製品に強く引かれた。 もっと使い込めば良かったかも知れないと思う製品のひとつ。 こういったハードウェア、OS、アプリケーションソフトから何から全てをデザインするぞ、という意気込みを感じるものがどんどん減ってしまった。 OS は何でもいい、というわけじゃないと思う。 新規に起こさなければ作り込めない領域が多くのものにあると思う。
(1998 年、Newton の最終時期の開発に関わっていた Vivek Mehra に Cobalt 関係で会った。彼とは今も交流がある。 彼が直接関わっていたモデルは結局数百台製造されただけで市場に出ることはなかった。 eMate やこの最終モデル頃の Newton 製品のメカニカルデザインをやっていた John Tang にも 2002 年に取材で会えた。)
SPARC/UNIX COSMOS'95 TOKYO で HotJava をはじめて見る。 VRML などさまざまな拡張が Web で行われていたなかでもかなり目を引いた。 幕張から帰ってすぐ学内のイベントで HotJava を紹介した。
これが 90 年代最後の衝撃だったかもしれない。
再び IBM MVS 互換の大型汎用機。ただしほとんど使わないまま廃棄した。
HP UX に載った Oracle を使ってみたが、そのあまりの構成の古さに驚く。 ログファイルの扱いやバッファエリアのハンドリングが余りに古い。 Sybase はもっとモダンな構造だったと思うが、そうした製品は生き残れないのか?
1996の年末だったか、1997年初だったかあたりで PC/AT を中古屋で購入し、Linux を入れて知人 ISP の T1 回線に直結し、連続運転実験をはじめた。 要するに Linux はインターネットサーバとして使えるだけの安定性があるか?と言うこと自体が議論の対象になっていた頃。
自分にとっては初めての Linux 使用。 それまでも Linux は触っていたが、まったく触れる程度。 これ以降ずっと Linux システムを使い続けることになる。
この頃だと思うが、しばらく BeOS を眺めていた。 BeBox をデモで見た時の驚きがその原動力。 キャッシュ無しとは言え、2 CPU にスレッドベース OS の組み合わせでレスポンスの高さを支えていた。
PowerMac の 1 CPU モデルに BeOS を入れてもこの高レスポンスは維持され、本来の MacOS よりよほど快適に反応することから、これは OS とアプリケーションの組み合わせ問題だということがはっきり確認できた。
動画を 5 つも 6 つも表示させながらウィンドウの操作や入力作業が滞らずできるようなことは Macintosh では遂に G4 CPU / OS X (NeXT kernel) までできなかった。
Pentium Pro 90Mhz 程度の 2 CPU SMP ボードを入手して、最低限のハードウェア資源で BeOS を回す「赤貧 Be 計画」を知人とやっていた。
(なぜか 2004 年になって BeOS 後継である Zeta OS に関係している George さんと知り合うことになった。)
知人から知らされ、6 月にユーザ会をスタートさせた。ひと目で気に入った。 僕をいろんな所に連れて行ってくれることになった長い付き合いの始まり。 自宅、中西さん宅、また自宅と長く旅をして 2014 年までユーザ会サーバとして動いていた。
(誰とは言わず、大量の友人ができた、、)
職場で SE, Si, IIfx, 8500 と使い続けてきた Mac も、どうもしっくり来ない時期が長かったが、この年の夏、突然 iMac が出た。(最初のモデル、いわゆる bondi。) 発売日の朝、衝動的に同居人に「買いに行こう」と言って日本橋に並んで持って帰った。 自分が何をパーソナルなコンピュータに求めているかが分かった。
分解するとハードウェア設計などでかなり頑張っていることが分かる。 工夫が無い製品を買う文化を 20 世紀末に作ったという点で PC はどうも良くない。
2005年の1月に US で FastMac のアクセラレータを買い、G4 466MHz になった。 実用の機会がなかったが、2007年にKidPixマシンとして復活。 また、2005年に128MBx2で運用していたのを、2009年3月に256MBx2に変更して512MB とした。 VRAM もどこかのタイミング(2005年?)に 4MB DIMM を追加して 1024x768 で使えるようにしたので、主記憶含めてこれでほぼフルスペック。 あとは Mezzani スロットからの FireWire くらいだが、さすがにブツがなく。
二台目の Cobalt。 長い時間を掛けてメモリを 64MB、ディスクを 40GB のハードウェア RAID、そのために二台分の筐体に二台分の電源ユニットを使うなど強烈に改造して使った。 引退はなんと 2014年。それまでメインのメイルサーバとして使った。
OS は IRIX 6。R10000 250MHz x 8。6GB RAM と満載で入れたら空調を 21 度にしないと警告が出るというとんでもない状態になった。 ひたすら不安定で気持ち悪いマシンだった。これを 2 セット入れたのでもう大変。 ただ SMP マシンとしてはパワフル。好む人の気持ちは分かる。
ファンレス、DVD に引かれ、勢い余って買ってしまった。 かなり長い間自宅でのメインマシンとして使っていたが 2004 年末に iBook を買うついでに下取りに出して(といってもほとんどタダ)廃棄した。 自分で買ったマシンとしては初めて捨てたマシンになるのではないか。
(VIC-1001 だってまだ物置にあるのに。)
(購入は 2001 年だったか?)
Transmeta の Crusoe を使った超軽量マシン。 この後 PowerBook にしたので気楽に持ち歩けるマシンとしてはこれが最終となるかもしれない。 実際よくあちこち持って歩いた。
CPU、メモリ、ディスク、ディスプレイサイズ、バッテリー、ポートやインタフェイスまでほぼ全てのスペックがピンポイントで自分にぴったり合った感じがした。 筐体がヤワいことを除いて、実に良いマシンだと思う。
ボディに Alan Kay のサインを貰った。
(2005年にCrusoe設計者である Dave Ditzel に取材で会った。 彼もしばらく FIVA を使っていたという。 当時 Efficeon 発表後で、将来が楽しみだったのだが結局その後 Transmeta はうまくいかず Dave も離れてしまった。 残念。)
PowerPC G4, 1.2GHz x 2 / RAM 1GB
はじめての MacOS X。 その前にも神戸の職場に買った Cube で最初の MacOS X を入れてみたのだが余りに遅く、利用を諦めた。 このプロセッサとメモリ量で初めて実用になった。
2005年末にメモリを足して 2GB に。
これを買ったために、1991 以来使い続けてきた Apple Portrait Diplay (15' 縦型モノクロ)を外した。single display に戻ったというわけ。
2010にNANAOのディスプレイを買って遂に一線を退き家庭用モニタになった。長く使った。
私物として初めて買った Macintosh notebook。 それまでずっと軽量マシン (Libretto70,SS1000,FIVA MPC206VL) と Linux だったが、結局アプリケーションのある生活をするために重量を諦めた格好。 開発、論文(TeX) は Linux、普段は Mac でターミナルとネットワーク利用、画像処理、 という二重生活がこれでなくなる。
2007年にやめるまで、四年ほど延々と使い続けた。 ディスクは 40GB からはじめて 80GB, 160GB へと変更した。 分解する度によくこんな複雑な構造で量産したなと思える逸品。
ボディに Alan Kay, Dave Ditzel, Ted Nelson, Robert Kahn のサインがある。
Cobalt Qube2 (MIPS R4000 互換 (QED), 250MHz / 64MHz / 64MB) に NetBSD 1.6.1 をインストールして使い始めた。 これがかなり快適。手元にもう三台もある。
ボディが少し綺麗なモデルになったのを機に同居人用にと購入。 クラムシェルではない最初の白い iBook は格好良かったが、その後のものはどうも。
これで自宅には Mac ばかりで本当に PC がなくなってしまった。 iMac bondi が G4 になって復活したが、ほぼ毎日ノート、無線 LAN と、コードレスな生活をしている。近距離の無線は不要(線を差せばいいじゃないか)という意見は常に聞くが、こうした生活に密着した利便性はやってみないと分からないと心底思う。
今年はあまり動きがない。 学生実験室に提供するつもりで、知人から中古で Cube を譲り受ける。 Apple Cinema Display (15inch, ADC) つき。
今年は Apple が x86 アーキテクチャへの移行を発表してしまったので、ホスト・バイトオーダーがネットワーク・バイトオーダーと一致している Unix マシンが身近になくなってしまうため、学生に最低一つは Power アーキテクチャの Mac を渡してやりたかった。 どんどん x86 ばかりの環境になってしまう。 何だろう、gene pool が貧困になっていっていると言おうか、ちょっと危機感が増しつつある。
自宅のサーバマシンを Qube2 からこのマシンに変更した。 小型のホームサーバとして Mac mini が充分実用に耐えるなと思えるのだが、しかしやはり夏場はヒートする。 冷却ファンが特殊なシロッコファンで、これが壊れるとちょっと代替部品がない。 Qube2 なら部品は幾らでも用意できるし、そもそも夏場でなければファンが壊れてもしばらくは放っておいて良い。 せいぜいフタを開けて扇風機でも回しておけば夏場でもしのげる。 サーバマシンとしては実はこの辺りが問題になる。
2007年にディスクが異音を立てたので以前 PowerBook G4 に入れていた 80GB Travelstar に交換した。
個人的にははじめての Intel Mac。 前の PowerMac G4 はこれにて休業予定。よく使った。
マルチコアが将来的に効くだろう、とある程度期待して 8 コアシステムを選択。 ソフトウェアは OS からアプリケーションに至るまで、ほぼ全ての層でマルチコアをどのように使うかということに焦点を当てて発達していくものと思う。 通常、OS やアプリケーションはバージョンアップすると重く遅くなるものだが、8 コアあればマルチコア化の恩恵によって幾らかその遅さが相殺されるのではないか、という予想を体感してみたかった、というのが正直なところ。 下手をすると無駄買いだったかもしれない。
アルミ枠、2560 x 1600 画素のもの。Mac Pro と合わせて購入。しかしどうにもこのモニタは僕の目に合わず、乱視が進みそうな気がしてしまうほど目が痛くなるので何ヶ月かで常用停止。 元の Cinema Display 20inch に戻した。
一般にも品質が悪い評判があるので、実際良くなかったように思う。
PowerMac とほぼ同じ期間、長く使った PoerBook G4 12inch をリプレース。 メモリが今どき 2GB で上限だったり、MacBook Pro と違ってビデオメモリが主記憶共用だったりしてスペック的にはいまひとつ合わないが、手元の予算との適合性で MacBook Pro をやめて安さで選択。 恐らく長くは使わない予定。
次に超薄型(ELまたはLEDディスプレイとメモリディスク)のノートをアップルが出しそうなので、それまでのつなぎとして使う予定。 サインを貰いやすいようにボディは白を選択。
予定通り出た超薄型(LED バックライト)マシンに更新。 メモリ 2GB 上限、ビデオ共用など気に入らないところは多いが、何よりも僕が求めていた軽さのために私費を投入。 スペック上最大の問題はストレージで、これが ZIFソケットのパラレルATAなので更新できそうにない。 Flash ディスクが時間と共に大容量化しているのだが、すべてシリアルATA。 この後に出た更新版はみごとに SATAになったのでますます期待薄。あきらめて次のモディファイ頃には買い換えか。
2009.3に音声出力の内部ケーブルが切れて修理に出した。保証は切れていたが AppleCare による延長が効いていて無償。このときキーボードと、キーボードがマウントされているボディパネルが交換された。 向かって左ヒンジがパキンと音がして壊れるトラブルが多く報告されているようだが、この交換によって生じていたグラつきが無くなった。
2011.12にバッテリが膨脹してしまったので交換。1.3万円だったか、それなりに高いが使えなくなるよりはまし。自分の機械で膨脹に遭遇したのは初めてか。
ようやく国内でサービスされたのでこれも発表直後に予約。 発売直後に非常に売れたが、そのあとしばらく停滞した Appleらしい製品。 らしいと言えば機能的にも良いところは他に代わりがないが、負けずに悪いところが大量にあるというのも良い。 丸い製品ばかり買う訳じゃなし。こういうところが良い。
一年で更新してしまった。 速度的にかなり改善されたが、しかし毎年6万円近く投入することになってしまい、ちょっと辛い。
Air のディスクが壊れたりして、急遽常用マシンとして利用することになった。 8GB までメモリが入るのが、長年使う僕としては非常に良いバランスと思える。 (2010年に 8GBに増量した)
また一年で更新してしまった。 電池の持ちなども改善し、これでようやく iPhone としては実用になったという印象。
実験用にと買った。いろいろ試した。
久しぶりに更新された Air。1Kg。2002年の Fiva 以来の小型、軽量マシン。 Air 最大の問題である、2GB メモリ上限が 4GB となって飛びついた。 4GB/128GB SSDでCPUは1.6GHz低速版。 常用マシンとしての使用は諦め、最初から出張用と位置づける予定。 この年の CES で購入した HyperMac のバッテリと良い相性になるのではないかと期待。
(と思ったら想像以上に高性能で常用となった。2011年夏にSandy Bridgeの新型が出たが電池が持たないようなので多分もう一年使う。2011年にOWCの256GB SSDに入れ替え。)
2007年に購入した前の Mac Pro をようやく更新。 しかしクロックスピードが前の 3GHz からかなり落ちているので、ぱっと触った感じはむしろ遅くなったようにも感じる。 (前のモデルは Xeon X5365 (Clovertown) で、これが今回 Xeon E5620 (Westmere) になった。メモリは 667MHz DDR2 から 1066MHz DDR3 に向上したが、あまり恩恵は感じられないかもしれない。)
前のモデルは当時のリリースでは最高速プロセッサだったが、このモデルはそうではない。 ただし同時期の最高速は 6 コアCPU単体で3.3GHz であり、8 コアはこれ(2.4GHz)しかなく、より高速な(といっても大差ない)2.93GHz が12コア(6 x 2)だったので、さてそれを買う意味があったかどうかは怪しい。 ともあれこれから長生きできるかどうか。 なお Lion として使い始めた。
miniDisplay port 専用だったため前の Mac Pro にはどうしても接続できず、ながらく待っていたもの。 視認性など含めてこれなら使えそう。解像度は 2560x1440。 これでも2007に購入した30inch Cinema HD Displayの2560×1600には一歩及ばない。 miniDisplay 専用。ThunderBolt 対応のものがこの後に出ている。
私物として購入する初めての iPad。 三月の発表翌日に購入。 2004年のiBookがそろそろWebで買い物などをするのに使えなくなってきたので、これでリプレイスする、という目論見。 そろそろ普通の人にはパソコンは要らないだろう、と思っているがさてどうか。 iBook が無事に最後まで動き続けてくれたことに感謝。
予定通り Sandy Bridge 版をパスしてこちらを購入。 CPU の TDP などは Sandy Bridge 版とほぼ同じなのでやはり電池問題はありそうだが、とりあえず TurboBoost を切る KEXT (DisableTurboBoost.kext) を入れて使っているぶんには問題にならない。 Thunderbolt デバイスを(ディスプレイであろうとディスクドライブであろうと)接続しているとコネクタ周辺がとてもヒートするのが今ひとつだが、8GB / 512GB にしたので能力的には満足。 初代の MacBook Air 以来続いていた、メモリとストレージが弱い状態で Mac らしくない使い方をし続けていたが、これでほぼ解決。
9月になって発売されたので iPhone 4 を2年使ったことになる。 4S が出た時の飛距離の短さとネーミング、5 になったときの飛距離の大きさの予想から 4S をスキップしたので、予定通りの買い換え。 とても薄くて軽い、のは良いが、個人的にはアルミの質感よりガラス、ステンレス枠の主張が大きかった 4 の方が好みだったりする。 しばらく経てばこちらの方に慣れてくるのだろうか。 CPU が高速化して、(ときどき使える)LTE による帯域向上のせいもあり、使い勝手としては良くなった。
なんとこの年はほとんどものを買わなかった。これくらい。 夏に回線を K-Opticom の IP1 に変更するとともに自宅サーバをこれに集約した。 このため Qube 2700WG (1999年からユーザ会サイトホスティング)、RaQ 2 (2000年から主メイル、Web サーバ)、Mac mini PPC (2006年から各種サービス)をすべてリタイアさせた。
9月に発表になった SIM free の 5c を10月に米国に行った知人に買ってきて貰った。 予備・旅行用 SIM free 電話として買ったつもりが、その持った感じの良さのために常用するようになり、5 は休眠することになった。SIM lock でもあるので、さて、どうしたものか。 それにしても 4 がとても好きだったのに対して 5 は余り好きにならなかった。 手に触れるキカイ、というのは性能だけじゃ無い、と強く実感する。
2007年に導入した Mac Pro のリプレースとして購入。
2012年から使い続けた Air の買い換えタイミングを逃がし、ここでの購入となってしまった。 本当は 16GB メモリのものが欲しかったがどうしても出てこないので待ちきれず。
5c を二年少し使い続けたものの、遂に 4inch iPhone が出てこなかったので諦めて購入。 結局 5c の持った感じのなめらかさが忘れられず、そんな感じの(すごく薄い素材の)ケースをつけて使った。
なんと 4inch iPhone が出たというわけで大慌てで購入。
速度的にも iOS 9 とよく釣り合った感じで、長らく使えそう。
5s がとても短命に終わってしまったのが惜しいが、TouchID つきのバックアップマシンとしては悪くないので売らずに置いておくことにする。
なんとこの SE は 2018 年の秋に Apple Store にバッテリー交換に出した際に起動不良を起こし、日本語版に置き換えられてしまった。
iPad 3 が壊れた(AC アダプタを機体の上に落とされてガラスが割れた・・・)ので買い換え。 iPad Pro はやはり大きくて、家で使うにはこのくらいがいい。
遂に MacBook Air が discontinue となってしまい、MacBook に移行。 MacBook Air でどうしても実限されなかった Retina Display と16GB Memory となったので喜んで買ったのだが、やはり USB-C 一つだけになった点はいろいろ不便。
2014 年に導入した Mac Pro が更新されないのでこの年にパワフルなバージョンとともに更新された Mac mini を導入。 32GB、2TB SSD でなかなかよろしい。
2018 年の秋に iPhone SE を Apple Store にバッテリー交換に出した際、起動不良を起こして日本語版に置き換えられてしまった。 シャッター音が消せないのは冗談ではないが、新しい iPhone XR などは大型化の一途をたどっており、致し方なく現行機種のうち最も小さな 8 を購入した。これで SE (日本語版)が予備機へと。
久しぶりに通知バンドを幾らか試してみたがやはりしっくり来ず、思い切って Apple Watch を試してみることに。 今のところ何とか付け続けることができている。これを使ったメッセージ返信のために Siri をはじめて ON にした。
SE 第二世代が出た(大きさは8と同じ)ので大喜びで購入。これで 8 が予備機になった。 8を長らく使ったけれど、やはり大きさについてはやはり不満が残る。 ただ、コストパフォーマンス的には強烈に良い機種と思う。
Air が更新され、少し大きいがなあ、と思いながら購入。やはり大きい。 が、仕事でDocker使う事が増えたなど、負荷が掛かることが増えたのでしばらく使ってみることに。 やはりMacBook (12inch)くらいが良いがなあ。 16GB/512GB。例によってメモリとストレージは大きめに、CPUは控え目に、な構成。
M1 SoC になったので試験的に買ってみたもの。Docker で x86 を必要とする作業があるため常用とはせず、学生実験などのために使っている。 ヒートしない(バッテリーがもつ)のはとても良い。
SE 第三世代が出た(大きさは8/SE(2nd)と同じ)。2年経ったこともありやはり購入。 第二世代から見て何も変わらないがそれで良い、という印象。つまり iPhone はもう新しさなどはとくにに重要でなく、ただ常用するインタフェイスになったと思える。
2019年に購入した series 4 が OS update した途端にバッテリーがもたなくなった。どうにもならず買い換え。Watch の OS はアップデートしないのが良さそう。
新しく担当する科目の教材作成用にまっさらな ARM Mac が必要になり購入。 教材作成用にまったく環境を触らずに使っている。
M2 MacBook があまりグッと来ず、常用マシンとして今さら M1 ただし 16GB, 1TB モデルを購入。 なんというか普通に使えていて、バッテリーがほぼ一日在宅勤務状態で持つのに驚く。