所有する音楽

音楽を所有すると言う概念は我々には必要なのだろうか。

音楽を所有するという概念は前世紀にエジソンが蓄音機を開発するまでは存在しなかっただろう。音楽がデータとして記録されるようになる以前、音楽は一過性の情報としてしか存在し得なかった。実にピュアな情報として存在していた。中世では音楽の所有と音楽家の所有は同一の概念だったに違いない。

エジソン以降、人々は音楽をメディアに記録して所有することが出来るようになった。現在の音楽産業システムは、音楽データを財産として所有するためのシステムにかなり近いと思える。

情報の流通が少ない環境においては、データと情報はほぼイコールで扱われる。情報が多く交換できるようになると、データの価値は徐々に下がり、情報のみが価値を持つ、いわば純粋な情報社会が出来上がる。

現在の MP3 / Napstar などは、それ自体には何も責任がないとしても、現実には強引に既存の情報・データ産業システムを破壊する、単なる既存社会システムに対するテロ的活動になり得る側面を持っている。ただ、乱暴さをこれらのアクションから取り除いたとして、では我々はどこに着地するのだろうかと考えた時、その答は音楽を所有するという概念を我々が望むか否かにかかっていると思える。

更に情報の流通が容易になったら、そこでは誰もが音楽を一過性の情報として楽しむようになるのだろうか。データを蓄積したり所有したりするという欲望は無くなるのだろうか。レンタルビデオは、家庭内への映像の蓄積量を減らしたのだろうか、増やしたのだろうか?これは難しい問いなんじゃないだろうか。

音楽を所有するという概念は前世紀の遺物か?来たるべき世紀では、我々は再び中世の時と同じく、音楽を極めて純粋に情報として楽しむようになるのだろうか。

(もちろん全ての個人がいつだって on Demand かつストリーミング的なトラフィックに全てを頼るというスタイルは僕の好みではない。ローカルなストレージをうまく利用するべきだし、永久ドキュメントをネットに残せない限り手元にデータのコピーを取るしかないだろう。)



Yutaka Yasuda

2001.02.21