PDFで Web page を構成することで電子出版ができたわけではない。出版過程が電子化されただけだ。そしてその成果物は二次利用可能性が低いという致命的な欠落がある。
Adobe の提唱する PDF (Portable Document Format) フォーマットによる電子出版が盛んだが、これは僕が考えている電子出版とはかなり違う。
Adobe という会社がどのような会社か思い出せば、事態はよく把握できるだろう。Adobe は PostScript という PDL (Page Description Language) を開発して、一躍 DTP (Desk Top Publishing) を現実のものにした。Adobe の製品は一貫して出版の作業工程を電子化するところに注目しており、彼らの言う電子出版とは出版工程の電子化を指している。つまり彼らが従来最終の出力物としてきた紙を、コンピュータとディスプレイに置き換えたのは、この従来から続く彼らの事業活動の延長以外の何物でもない。
実際、PDF は PostScript に次ぐ製品だが、その実体はかなり PostScript に近い。dpi に依存しない美しい表現を紙ではなくディスプレイの上で果たしたいだけだ。
これは Web などを用いて現在行なわれている電子出版とは根本的に性格が異なる。一方は出版工程をデジタル化した結果、紙ではないものにプリントアウトしただけであるのに対し、もう一方は紙によって作られた出版物と関係なく、デジタル世界に情報を置くというスタイルから出発したのである。その結果、多くの作り手による断片的な散在するドキュメントという形態を手に入れている。これこそ紙による出版という物理的制約から解放された電子出版の本質だ。(『電子世界の出版と蓄積』参照)
近い将来において、情報はまず人間ではなく機械が読むことになるだろうとニコラス・ネグロポンテは『ビーイング・デジタル』で言っている。同感だ。ネットに散在するデジタル出版物を読むのは人間ではなく、まず機械であるべきだ。Web ブラウザの前に座ってクリックしては待つ作業を繰り返しているネットワーカーの姿は、およそ誰が見ても非人間的なものに映るだろう。ネットが太くなって待ち時間が短くなれば人間的になるという話でもない。
ネットに散在するデジタル出版物を、人間に代わって知性を持った機械が読む風景は、決して遠い未来のものではない。しかし PDF はそのために必要な要件を満たしていない。すなわち文書をイメージとして再現することを第一目的にしているために、筆者が文書を執筆した時に込めた文書の構造に関する情報を失っているからだ。
HTMLは SGML 的なアプローチをとることによって、文書の構造を保持しようと努めている。しかしこれも余りうまくいっていない。つまりどちらも納得できる答を得ていない。この世界は時代劇ほど単純に正義と悪役に分かれているわけではないのだ。
(HTMLのまずさについては『HTMLの文書構造記述の価値』も参照。)
しかしいずれにしても PDF を使って文書のデータ化を推進することはやめよう。それで自社の文書を電子化したと思うのは大きく間違っている。それで電子出版が果たせたと考えるのは大きく外している。そこに未来はないのだ。
1998.06.06