電子世界の出版と蓄積

電子世界の出版は蓄積とイコールだ。しかしそれを意識しない今の WWW は、いずれゴミの山と化すだろう。どうすればいい?

(本 Note では電子出版を、PDFなどによる電子化された作業によって行われる従来的な出版を指していない。これはDTPの延長である。『PDFで電子出版?』を参照)

ネット上での出版は紙による出版と違うところが幾つかある。特に現在の Web が提供するような環境でのドキュメントの特質は「大量の作家による断片的で散在した大量のドキュメント」と表現できるだろう。このドキュメントの品質はまちまちで、それぞれ満たされない部分を、より多くの情報を持つ他者へのリンクとして表現する傾向がある。
また、Web がもたらしたもう一つの環境、すなわちデジタル出版物がネットワーク越しに即時にアクセスできることに注目すれば、出版と同時に蓄積されることがわかるだろう。つまり従来的な出版物は、出版は出版社が行ない、蓄積は図書館が行なっていた。それぞれ全く違う作業として分業されていたのである。しかしつまりデジタル出版物は、最初の公開時の閲覧と、後の閲覧とに何ら機構的な相違がないことが分かるだろう。つまり出版と蓄積を分業する必要が全くなくなったのである。

そしてまた、ネットワーク上に散在する出版物は、場合によっては独立性が薄く、リンクという相互の関係を生かしたまま保存しなければ再利用の価値がなくなってしまうものもある。つまり蓄積は出版された時のままの、「場」そのものとして行なわれなくてはならないのである。蓄積の対象は個々のドキュメントではなく、全体なのだ。ネット世界の出版物は出版されたその時から、そのまま蓄積されなければならない。分業していてはこれは実現できないのである。

このことを意識しないで出版し続け、蓄積を放棄すれば、個々のドキュメントは相互の関係を失った断片となってしまう。これは単なるゴミだ。つまりネットワーク上には「新しくて価値のあるもの」と「古いゴミ」の二種類のものしか残らなくなり、当然あっという間に「ゴミだらけ」になってしまうだろう。新しい状況に追随し続けるドキュメントだけが残り、そうでないドキュメントは内容の如何にかかわらずゴミとなるだろう。これではネットには何も蓄積されない。ネットは巨大な図書館だと誰かが言ったような気がするが、そんな図書館は誰も使わない。
今サーチエンジンは大量のゴミを見せてくれるが、それはネットのゴミ化の最初の一歩に思えてならない。昔はあれほどサーチエンジンが有効だったのに、量が増えただけでこんなに役に立たなくなるなんて!
(サーチエンジンの効果については『HTMLの文書構造記述の価値』も参照。)

電子世界での出版は、同時に蓄積をも意味する。それを忘れてドキュメントを消したり移動したりしては駄目だ。Fix されたドキュメントには Fix マークをつけ、それはリンクを張られていることを前提に、可能な限り長く保存し続けなければならない。不変の識別子が必要なことが、これで理解できると思う。

テッド・ネルソンは『リテラリー・マシン』において、このハイパーテキストの特性を、その発明の時に見抜いていた。しかしハイパーテキストの上済みだけすくった WWW は、これらのことを忘れてしまっているように見える。
WWW はまたネットで集中を生んではならない、と言うことを忘れ、デジタル情報はコピーできる、ということも忘れて、多くの無駄トラフィックという災害をネット上に撒き散らしている。(『WWWの功罪』参照。)

次代のアプリケーションは、知恵の活かされたものであることを願う。



Yutaka Yasuda

1998.06.06