Cinema Essay

怖い 1


小学校低学年だったろうか、家族と一緒に夜9時から始まった定番の洋画劇場をテレビで見ていた。何かしらいつもとは違う緊張感を肌で感じていた。10時を過ぎたあたりから、曲げた両膝に両手を絡ませた格好のまま、台所から母に呼びかけられても返事がおぼつかないほど身体は硬直していた。たぶん「早くお風呂に入りなさい。」とか何とか言われてたと思う。私の返事がないので母の声もだんだん大きくなる。仕方なく曖昧に返事をやり過ごす。でも、顔はテレビに向けたまま、振り返れなかった。声は確かに母のものだが、声を出しているのが母とは限らない。その時そう思った。振り返って、もし声の主が母以外の誰かだったら… 誰かだった、ならまだいい。もしそれが人間でさえなかったら…
その後、自分がどうやってトイレへ行ったのか、お風呂に入ったのか、はたまたどうやって布団に入り、眠りに就いたのか、ほとんど記憶にない。確かなのは、その翌日から数週間、洗面所に立つことが億劫になったこと。
もし背後に何者かの気配を感じるにも関わらず、目の前の鏡に何も映っていなかったら…  そして同じく数週間もの間、私は父に作ってもらった大きな木製の十字架を抱いて毎晩就寝していた。その時分、私の家は木工所を営んでおり、それくらいの材料なら腐るほどあったのだ。何よりも、あの日の母の声が母の口から発せられたらしいと自分なりに判断して納得した時は胸をなでおろした。でも、「ニンニクを玄関に吊しておこう。」という私の要望はついに聞き入れられなかった。やはり彼女は母ではなく、何者かが化けているのだとも考えたが、その口から「ええ加減にせえアホんだら、しばくぞ!」と発せられるや、その口調と顔つきと身振りから、本人に絶対まちがいないと確信する。
私をここまで怯えさせた男の名はクリストファー・リー。ここでの彼の両眼は、浜寺プールの監視員の兄ちゃんに笛を吹かれそうなほど充血し、マントを纏ったその立ち姿は、シネスコサイズを無理矢理圧縮したスタンダードのようにアナモフィックな華麗さと怖さを持ち合わせていた、と思うが、定かではない。
今なお記憶にあるシーンが二つ。一つは、太陽が西の空に沈む直前に、男がドラキュラの心臓に杭を打ち込もうとするのだが、その時、棺桶に横たわってるドラキュラの両眼がカッと見開き、ただそれだけで相手が身動きしないにも関わらず、男は恐怖におののいて杭を打ち込むのを諦める、というもの。もう一つは、雷雨の中、ドラキュラ城のベランダみたいな所で、男とその恋人の前にドラキュラが立ちはだかるクライマックス。男が、手にした避雷針だか鉄パイプだかをドラキュラ目がけて投げつけ、それが見事に胸に突き刺さるのだが、その箇所が心臓からは僅かに逸れていたために彼にとっては痛くも痒くもないらしく、両手でゆっくりと自分の胸からその棒を抜き去ってしまい、今度は逆に、それを二人に向かって突き投げようとする。だがその時…
この後どうなったかは概ね想像つくと思うが、分かった方も、そうでない方も、そんなことには関係なく、一度ご鑑賞願いたい。
個人的見解だが、仮に、今自分が見直してみると、全然怖くないような気がする。
「このクソ詐欺師野郎!」と今少しでも思ったあなた。あなたがほとんど正しいと思う、僕も。
それを確かめる意味でも、一度観てみましょう。たぶんビデオで出ています。『ドラキュラ 血のエクソシズム』という題を付けるくらいだから、製作年度は『エクソシスト』のファースト・ランの前後くらいかな、と思われます。
でもやっぱり、期待しないでね。

Report: 武縄 広之 (1998.04.03)


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