Cinema Review

存在の耐えられない軽さ

Also Known as:Unbearable Lightness of Being

監督:フィリップ・カウフマン
出演:ダニエル・ディ・ルイスジュリエット・ビノシュ、レナ・オリン

脳外科医トマシュと芸術家サビーナ、そして写真家志望のテレーザの愛と生(性とも言うべきか?)を通して描かれた3人のわずか数年間の波乱な生涯を物語る秀作。

1. 自由を求め続ける女性サビーナ

芸術家サビーナは自分流の生活スタイルや生き方、思想をしっかり持った人間としても、仕事の上でも自己確立した強い女性であった。そして「完成しきった大人」である彼女は束縛を嫌い常に自由を求め続ける女性でもあった。男であれ国家であれ束縛されそうになるとするりと逃げていく・・・そんな彼女にとって「自由」とは生きることのすべてであったといえる。トマシュとの関係も「お互い束縛し合わずに自由を認め合いましょう」という実に割り切ったもの。そのサビーナがトマシュと長年付き合っていけたのは彼もまた他人に依存せず、自己というものをしっかりと持ち合わせた人物だったからなのだ。そういう意味においてトマシュとサビーナは極めて同質の気質を持った完成しきった大人同士の最高のカップルだったといえる。お互い別に恋人がいるにも関わらず、その事に対してオープンに話し合える。ここまで自分をコントロールできたら立派だろう。「お互いの自由を認め、相手に依存しない」とは正にこういう事である。「自分の自由を求めるなら、当然他人の自由も認めなければならない。」これこそ本来の自由の姿である。「束縛されたくない代わりに他人にも絶対束縛はしない。」そのことをサビーナは十分理解していたのである。(同じようにトマシュも相手に束縛することはなかった。)現にサビーナはトマシュの彼女であるテレーザを快く受け入れカメラマンになろうとする彼女の手助けをしている。その精神の寛大さには驚きと同時に感心すらしてしまった。サビーナは本当の意味で自由を知る女性だったと言えるのではないだろうか?
(サビーナはネチネチとした女の嫌な部分が全くないさっぱりとした女性であまりにもつききったその強さに憧れを感じた。もっとも「孤独と仲良くするのはちょっとせつない」そんな女らしい一面も持っていて、そのしんみりとしたせつなさが要所要所に表われている所に益々魅力を感じた。)
そしてその「束縛を嫌い、自由を愛する」というプリンシプルがあったからこそ彼女は「強い国(アメリカ)に行くわ」という選択を選び、ラストまで生き延びることになったのだと思う。サビーナの生命力の強さの原点はここにあったと言えるのではないだろうか?

2. 異質な存在テレーザの出現

田舎娘テレーザは職業も見つからず、まだ完成しきっていない、いわゆる発展途上中の女性であった。(サビーナとは対照的な存在として描かれている)ただ、彼女には野性の勘の様なものが備わっていて非常に感性の鋭い人間でもあった。(『ベティーブルー』における「ベティー」の存在に似ている)素質は十分あるのだが開発はされていない、それがテレーザの第一印象である。この今まで出会った事のない毛色の違った異質な存在であるテレーザに興味を示したのがトマシュだった。今まで彼の元を通りすぎていった多くの女性とは随分違う所にトマシュは引かれていったのだろう。捨てられた子猫を飼う様な気持でテレーザを飼い始めたところ、最初は自分に依存してくれるかわいらしくてか弱い女性としてしか写っていなかった彼女が意外な強さを見せ始めるようになる。写真家になろうと目的意識を持ち出した頃から彼女は成長しだし自立への第一歩を踏み出したのだった。彼女の人生に対する「重さ」にはちょっと異常なものもある。すべてを深刻にとらえすぎなのではないかという部分も多くみられる。だが、それが彼女の生き方だった。フランス人のいう「ファムファタル」的な存在になれたのも、この「重さ」に対する異常さがあったからなのかもしれない。彼女の存在はトマシュの一生を大きく変えることになる。彼の生き方や思考そのものを変えてしまったテレーザは最後にはトマシュに依存する存在ではなくトマシュから依存される存在になっていたのだ。(ラストにテレーザを追いかけて「弱い国プラハ」に戻ったことで証明されるだろう。)

3. 人生の「重さ」と「軽さ」

人生を「軽さ」と「重さ」に分けるとするならサビーナの生き方は前者であり、結果として「軽さ」が最後まで生き延びる事になった。人生を「軽く」流せるはずだったトマシュも、テレーザに出会わなければ生き延びる事ができたであろう。人生を「重く」生きたテレーザの影響力は大きかった。映画の中盤にさしかかったワンシーンの中に、「私ももう逃げるのは終わりにしようと思っているの」とサビーナがトマシュにつぶやく場面がある。(このセリフは後々の彼等の行方を暗示する伏線になっている。)「自分と一緒にアメリカへ行かないか」と珍しくサビーナはトマシュを誘うのだ。サビーナはトマシュの今後の危機というものを敏感に察知していたのかもしれない。テレーザに出会ってからの彼の変化にも気付いていただろうし、頑なに政府からの「前言撤回文」への捺印を拒否していたその危険性も彼女は十分熟知していた事だろう。(トマシュは政府の役人をオイディプスのギリシャ悲劇に例えて攻撃していた)だからこそ珍しく誘ったのだ。生き残る為に・・・。(だがすげなく断わられてしまう。もちろんサビーナの性格上それ以上無理に誘うことはなかった)だが自分の発言に責任をもち思想を曲げないというのがトマシュだった。(それがトマシュの魅力の一つでもあるのだが・・・)アメリカ行を断わり、捺印を断わり、脳外科医の権限を剥奪され、そして死・・・。死の国へと一歩一歩近付いていったのである。(事故死という不審な死に方に疑問を覚えるが、愛犬カレニンが安楽死という意味で伏線になっているのなら彼等の死もまた安楽死ととるべきかもしれない。いずれ国の役人に追われ殺されることは目に見えていたのだから・・・。衝撃を少なくする為にワンクッション置いたつもりだろうか?)サビーナの嫌な予感があたってしまった。以前のトマシュならいくらでも生き延びる術を知っていただろうし実行しただろう。しかし、テレーザと出会ってしまってからというもの彼の性格に異変がおきてしまった。テレーザの持つ人生の「重さ」はそのままトマシュの思想にも流れ込み、トマシュの人生をも「重い」ものにしてしまったのだ。テレーザが写真という手段を使い、国を敵に戦っている姿を見て触発されたのか、彼もまた論文という形で政府を攻撃した。全面対決、逃げる事はしなかった。その強さは立派だと思う。だが、不器用な生き方だと感じた。サビーナは自嘲的に「自分は自由を求めようとし、いつもその場から逃げている。」と自分の事をとらえていたようだが、決して「逃げている」訳ではなかったと思う。賢い選択をしていたのだ。危機をうまくすり抜ける術を生まれながらに知っていただけなのだ。「逃げ」が愚かなことではないのは知っての通りで、時には「逃げ」なければならない事もある。器用に生き延びるには時には「逃げ」も必要で、それが表面上には人生を「軽く」生きているように見えるのかもしれない。(本当はサビーナだって人生を「重く」生きているはずだ。)トマシュの「逃げない」行動も立派といえばそれまでだが、本当に不器用な生き方だと思う。だが、脳外科医から店の窓拭き屋に転身しても嫌な顔一つせず、満足そうに達成感にひたっているのだから本人が自己満足しているのなら何も言うことはない。彼の生き方に間違いはなかったのだろうと思う。一方、本当に理解しあえる唯一の恋人を亡くしてしまったサビーナは生きながらに地獄を見ることになるだろう。どれだけ多くの人がサビーナの元を通りすぎてもトマシュほど分かり合える人物はもう現われることはないだろう。自由は限りなくあるけれど、孤独と永遠に向き合わなくてはならない。そんな人生はサビーナには酷だと思う。たとえ遠くにいても生きていてほしいというのが女心ではないか?彼女のラストシーンの涙に同調するように泣けてきた。人生を「重く」生きることはやはり難しく、そしてまた「軽く」生きることも難しい。重いテーゼが心の中に残ってしまった。

Report: Yuko Oshima (1997.01.11)


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